2019年10月

少年A(7歳)は友達のうなぎ屋の4男ケンちゃんから「うちの店でお前を呼んでるおじさんがいるよ」
店に行くと太り気味の身なりのいいオジサンから「ウナギ食うか?」と言われもちろん「うん!」
なんで知らないオジサンが俺にウナギをご馳走してくれるのか分からなく、又分かろうともしなかった。
その当時昭和20年代後半は知らない大人から食べ物を平気でもらっていた時代でその理由を考えなかった。
だが記憶には残っていた。その店が「ふ志多や」だ!後日、大学に入学する時にその理由は判明する・・・・。
「ふ志多や」のうな丼
本日、隅田区に用事があり森下町まで歩いて「ふ志多や」に入った。うな丼が肝吸い付きで1700円、少し時間がかかったのはちゃんと焼いて味付きご飯の上にのせてあったからだ。とてもうまくそして1700円は安い!
そして会計の時にいろいろ聞いてみた。「私は70年ほど前に近所に住んでいてこの店のせがれケンちゃんが友達で、たまたまこちらに来たのでお聞きするが、彼は健在かい?」そこの女将が出てきて「あたしの兄の弟でとっくになくなりました。それから近所の○○さん△△さんもぜーぶ亡くなりました。よーこそお越しくださいました。」てな挨拶をされていい気分で店を出た。
ふ志多や -


3年に1度の瀬戸内国際芸術祭は前から知っていた。9月に読んだ池澤夏樹の小説「アトミク・ボックス」が小豆島、直島等が舞台になっていてそれも動機で行くことにした。相変わらず衝動的だが・・・。

23日(水)高松空港、高松港からフェリーで小豆島土庄港へ、軽自動車レンタカーで5か所の作品巡りをして「ベイリゾートホテル」に宿泊

24日(木)高速船で豊島(てしま)へ、雨の中豊島横尾館を見て作品「針工場」雨なので高速船で小豆島経由で高松に戻る。「リーガゼストホテル」宿泊。終日雨・・・。

25日(金)フェリーで直島へ、草間彌生のモニュメントが有名。シャトルバスで地中美術館へ行くがオンラインチケットを持っていないので入れなかった。歩いてBwnesse Houseへ、そこの作品はほとんどが解説文がない。「芸術」は解説文を読んでみるものではなく、見た瞬間の自分の感覚が大事だ!ということか!
高知空港の待合スペースのテレビで千葉の大雨被害がひどくなっているのを知る、
羽田からリムジンで9時40分帰宅。
草間彌生C
草間彌生B
中国人観光客
<figcaptionトイレも作品 src="https://livedoor.blogimg.jp/fuwaraidow/imgs/3/3/339f0bd0.jpg" border="0" hspace="5">

シャン・ヤン










友人から今回のワールドカップを見た南米在住のサッカー記者からの雑誌「Number」の記事が面白くここにURLをコピペします。私が感じたお礼返信もコピーしておきます。
https://number.bunshun.jp/articles/-/841134?page=3

とてもタイムリーな情報ありがとう!
じっくり読ませてもらいました。
私の周辺はラグビーもサッカーも結構縁があることが多い。
三女の亭主は法政のラグビー部出身、大学スポーツの前近代的な体質に穴をあけた一人、というのが彼の勲章・・・?。
その息子は「西東京ラグビースクール」でスクラムハーフ的なポジションでラグビーを楽しんでます。この前はテレビドラマ「ノーサイド」
にエキストラ出演しました。又、親しくしているテニス友達がラグビー通でトップリーグや東芝、サントリーの練習試合なんかをよく見に行きます。
サッカーは現役時代、Jリーグ発足した当時、景気も良かったので会社の福利厚生のため100万円で「FC東京」のサポーター企業になって味スタには
よく見に行きました。
それでもどちらかというとサッカーのほうがなじみやすく、ラグビーはイマイチ反則がよく見えなくてなじめないところがあった。
しかし今回のワールドカップを見ていて単なるゲームではない何かを感じてしまい、スコットランド戦の時にはテレビ観戦していて喉が渇いてしょうがなかった。
そこでロシア戦後に一念発起してラグビーのポジション名と番号を暗記して日本代表選手のポジションを覚えました。すると試合の見方が進化したというか
俄然面白くなってワクワクしてテレビ観戦できました。
このNumberの記事を読んで、戦争までしてしまうサッカーとノーサイド精神のラグビー、これからの日本のスポーツ界に今回のワールドカップがどれほどの
影響を与えるか興味がわく・・・。TAKE

「天災は忘れたころにやってくる」「今回の災害は50年に一度・・・」「今まで経験をしたことのない雨量と風・・・」
こんな言葉がオオカミ少年的に聞こえるようになってしまった。
今回近隣の人を避難所に運んだ時にその避難所が開設していなくて暴風雨の中ウロウロした経験をして今回の災害を身近に感じた。そして翌々日に府中市役所の行政管理部、危機管理課に電話してみた。抗議的な口調ではなく今後の危機対策(特に台風被害の避難所について)聞いてみた。やっとつながり、担当者はかなり詳細に説明してくれた。結論的には行政にも限界があるということだ。したがって当たり前だが、災害の時は自助の精神で対応することが大切だ、との結論になった。
残り少ない命だが災害で死ぬのは嫌だね・・・。
台風19号関戸橋から

10月12日
13時頃:
関東に直撃が確実になって大雨特別警報が発令され、避難を呼びかける緊急メールが大きなお知らせ音で私のスマフォに頻繁に来るようになった。

15時頃:
我が家の方針を次のように決めた。家の前の道路が冠水したら家の前にある救急病院に避難することにしよう。

16時頃:
3軒隣のMさんから固定電話があり次のようなやり取りをした。
Mさん「もし府中第5小に避難するのであれば一緒に避難しませんか?」 
「うちはまだ非難は決めていないが避難するとすれば前の恵仁会病院にするつもり」
Mさん「私の家は古くて府中市から浸水崩壊家屋に指定されていてハザートマップに避難場所が府中5小になっているのでそこに避難したいのですそれに犬もいるので」
「とにかく家に来てください。相談しましょう」 
彼女(ご両親が昨年相次いで亡くなり一人暮らしの50台の女性)は犬運び用のバッグに犬を入れて避難用の荷物をもってやってきた。
結局、私が車で彼女を府中5小に送ることにした。府中5小は我が家から1,5キロぐらい北の高台(こちらではハケと呼んでいる)にある小学校だ。
現地に着くと避難してきた人が数人いたが避難所が開設している様子はない。体育館もカギがかかっている。数人の人たちが情報を集めていて、ある人が「お巡りさんがもうすぐ来るので待ってましょう」とか「避難所は府中10中みたいですよ」とか情報が錯綜していたが、同じ避難してきた人が数人いたので私は我が家の引き返すことにした。
1時間後ぐらいに彼女から「おかげで皆さんと府中10中に行くことができました。本当にありがとうございました」とお礼の電話があり、ホッとした。

17時頃:
雨、風がますますひどくなってきたがとりあえず早めの風呂に入り、夕食も済ませ、テレビを見ながらPCで多摩川のライブカメラ映像を見ていた。又時折窓から前の道路の状況を眺めたていたが冠水する様子がない。
テレビはラグビー(アイルランド対サモア戦)を見たり、カミサンお気に入り「世界ふしぎ発見」を見たり過ごし10頃になり、結局避難せず寝ることにした。

10月13日
4時頃
いつも目が覚める時間だが起床した。そして新聞を取りに玄関を出たら暗い空は晴れていて星が見えた。少し庭の草木が倒れている程度で被害はなし。



↑このページのトップヘ