私はづーと菅直人に投票してきた。
あの東日本大震災、原発事故処理の対応を評価しているからだ。
あの時お腹が痛くて政権を投げ出すような安倍がトップだったらと想像するとぞーとする。
その当時の北澤防衛大臣との対談が目に入ったのであの時の様子を思い出しながらここにコピーしておいた。

以下Abemaブログより

「北澤さんは私の先生だった」


 私は市民運動出身で、大きな組織を運営した経験はありませんでした。北澤さんには若い頃から、先生のようにいろいろなアドバイスをいただきました。自分自身の活動でも、党内のいろいろなことを考える上でも、ものすごく助かりました。
 

北澤 私は自民党出身で、事前にいろいろ準備や調整をする政治(文化の中)で育ってきましたが、菅さんはいきなり真剣勝負。見ていると小気味がいいんですよ。度胸のある政治家だなと。一方で少し危なっかしいところもあるから、そんな時には意見を申し上げたりしてきました。
 

 震災の時に北澤さんが防衛大臣だったことは、ものすごく大きかったと思います。
 

東日本大震災と「自衛隊10万人」


 震災発生翌日の3月12日にヘリで福島原発に行き、現地の吉田昌郎所長に会いましたが、さらにそのヘリで(津波被害を受けた)宮城県の海岸沿いを見てきました。海と陸の境目が見えない状況がずっと続いていて。これは本当に大変だ、誰が見ても相当の人が命を落としている、と感じました。
何としても自衛隊に出てもらわないといけない。東京に帰ってから北澤さんと相談しました。私が相談する前に、北澤さんはすでにいろいろ動いてくださっていました。

 

北澤 菅総理が現地を視察したことを、私は非常に高く評価しています。批判する人もいましたけど、原子力についてしっかり学んだことのある政治家は、当時は菅さんしかいませんでした。その上で現地を見たことは、その後いろいろな判断をすることに非常に役立ったと思います。(最初に「自衛隊2万人をすぐ出動できる」と言いましたが、その後)総理の意向を受けて、5万人、10万人と増やしていきました。
防衛省が結束して菅総理の要請に応えられた理由の一つに、菅総理に対する信頼、感謝があるんです。防衛省は「総理秘書官を防衛省から出す」ことが積年の懸案でした。今までは国内で災害があっても、総理には警察庁の秘書官を通じて情報を上げるしかない。総理のすぐそばで直接お話ししたかった。菅さんはそれを決断してくれたのです。

 

 総理秘書官をどの役所から選ぶかは、自民党政権時代から慣例で決まっていました。でも防衛省は、総理と情報が直接つながることが重要だという思いを、特に強く持っていました。要請を受けて、私なりに判断して「ぜひお願いしよう」となりました。
 

北澤 震災の時も、菅総理と会う時は極力事務次官と統幕長を連れて行きました。防衛省に対する菅総理の思いを、みんな共有していますからね。防衛省が一致結束して総理の指示を受け入れることができた大きな原因だったと思います。
 

 それが結果として、ああいう(大災害の)事態になった時に有効に機能しました。
 

北澤 (大勢の自衛隊員を出すにあたり)日本の領域外からの侵入に対する監視活動が疎かになる懸念がありました。これをギリギリクリアできる範囲で、何人出せるかと。10万人体制ということで、総理の要請に応えられました。
 あの時、ロシアも中国も頻繁に偵察に来ました。中国もロシアも震災では多くの支援をしてくれましたが、一方でスクランブル(緊急発進)をかける回数が、今までにないほど多かったんですよ。日本の状態がどうなっているかと同時に、日米の連携の精度がどれほど高いのかを見たかったんですね。こんな大きな災害があっても、他の国が日本の状況を偵察することを手控えることは全くない、ということはよく分かりました。
でも、後で聞きましたが、後に中国の軍事雑誌に「自衛隊と米軍の連携の密度がこんなに高いとは思わなかった」という論文が載っていたそうですよ。

 

 北澤さんが防衛省をしっかりグリップされていて、それがうまく機能したということですね。「総理がそこまで言うのであれば最大限(出そう)」と、事務方も一緒になって考えてくれたということでしょうね。
 

北澤 自衛隊は私の指示で、全国すべての基地から人員を出させました。すべての基地の人間に、この災害を経験させようと思ったんです。
彼らは献身的に働いてくれました。私は14日に初めて被災地に行き、自衛隊員に訓示したのですが、その時に「ご遺体を収容する時は、ご家族に渡して初めて遺体になる、そういう思いで(生存者と同じように)丁重に扱ってほしい」と話をしました。
実はその前に、幼い赤ちゃんを抱きかかえたまま亡くなっていたお母さん(のご遺体)を収容した話を聞いていました。何も持たずに母子手帳だけを握りしめていたそうです。
胸を打たれました。赤ちゃんを抱いて避難する時にも、母子手帳だけは手放さない。生への執念というか。目が潤むような気持ちがしたのを、今も思い出します。

 

原発事故と「自衛隊のヘリ放水」

 

 原発事故対応もありました。象徴的なのは17日のヘリコプターでの原発への放水。自衛隊には非常に危険なオペレーションをやってもらいました。あそこから局面が変わったと感じています。それまではアメリカを中心に「日本は(事故対応に)本気なのか」とみられていたのですが、あのオペレーションから雰囲気がいい意味で変わり、アメリカも本格的に協力してくれました。
 あの時は確か、原発の使用済み燃料プールに水がなくなっているんじゃないか、という情報があったんです。(建屋などで覆われていない)使用済み燃料プールで水がなくなれば、ものすごい量の放射能が外に出て、原発から250キロ圏に被害が拡大してしまう。それを防ぐには使用済み燃料プールに水を入れないといけませんでした。

 

北澤 そうだね。
 

 そういうオペレーションを自衛隊にお願いしました。まず16日に行ったんですけど、放射線量がめちゃめちゃ強くて引き返し、翌日は急きょ(ヘリの床に)鉛板をひいて、決死の覚悟で水を落としました。あの自衛隊のオペレーションがあってから、いい意味で空気が前に進み始めました。
 

北澤 アメリカからは「『英雄的オペレーション』をしないと世界が納得しない」とも言われていたんですよ。いろいろ検討するなかで「自衛隊がヘリで放水するのが一番いい」ということになって。
私は「これから子育てするような若い隊員は、任務から除外すべきではないか」と言ったんです。すると彼らは「そんなことは絶対しないでくれ。通常の任務の中でこなしたい」と。要するに「斟酌しないでくれ」と言ってきたんです。徹夜でヘリの底に鉛の板を張って、安全性を確保して……。1日目は放射線の濃度が高くて断念しましたが、翌日は断固としてやった。いいオペレーションができて、アメリカ側の対応もガラッと変わりましたね。「日本は本気を出してやっている」と。
ああいうのは本当に胸に刺さるね。隊員との一体感がわき上がってくるんです。

 

「撤退はあり得ない」と対策統合本部設置
 

北澤 菅総理という人は、いろんなことを慮って対応することがない。相手が何を思おうが、自分の意思でガンガン進む。すごいことだと思います。
 北澤さんは私の性格をよくご存じで。私としては悪気はないんだけど、ついダイレクトにものを言ってしまうので、相手には「何でこんなことを言われなきゃいけないのか」と思われたかもしれない。そういう意味では忖度が足りない(笑)。ただ(相手が)嫌いだからとかいうことでは全くなくて、具体的に意見が食い違った時に「どうなっているのか」と聞いただけなんですよ。

 

北澤 そういう考えが(15日に)東電本店に乗り込んで対策統合本部を設置することにつながったと思います。あれが(原発事故対応の)最大の曲がり角だった。東電に任せていたら大変なことになっていました。
 

 あれは15日未明だったですが、官邸で仮眠していたら担当者が起こしに来て「東電から撤退したいという話が来ている。どうしましょうか」と言ってきました。
私は以前から、ギリギリの時にはそういう場面もあり得ると想定していて、結論は自分の中では決まっていました。原発をオペレーションできる能力があるのは東電だけ。東電の関係者がいなくなれば、原発を放置することになる。それこそ日本中に放射能をまき散らすことになる。ここは何としてもとどまってもらわなければいけないと思い、清水(正孝)社長を呼んで「撤退はあり得ない」と言ったんです。
 これが(総理の)権限の範囲だったかは分かりません。(総理は)原子力災害対策本部長ではあったけれど、原発のオペレーションは東電がやることになっていて、原災本部がオペレーションまで指示する形には、法律上もなっていませんでした。「撤退」がオペレーションの内側か外側かはよく分かりませんが、私は「これは日本の運命がかかっている。ぜひとどまってほしい」と。
その時に清水社長に「東電と官邸の対策統合本部を作りたい」「官邸ではなく、東電の中に作りたい」とも言いました。撤退を押しとどめるだけでは不十分だと思ったのです。それまで東電から(官邸に)来てもらって話を聞くことを繰り返していましたが、清水社長が来た時に「このままじゃだめだ」と強く思い、その場で言ったんです。事前にどこまで考えていたか、今でもよく思い出せないのですが、逆に言えば、東電の撤退問題があったから、対策統合本部を設置できたのかもしれません。
東電の本店に入ったのは人生で初めてでした。行ってびっくりしたんですが、大きな部屋に入ったら、目の前にドーンとテレビスクリーンがあるわけですよ。(原発の現場とも)全部、テレビ会議でつながっているわけです。

 

北澤 へえ。
 

 こっちはそういう存在を知らないわけですよ。私たちは原発の状況について、東電本店から官邸に来ている元副社長から説明を聞いていたんですが、何のことはない、リアルタイムで全部つながっていたわけですよ。
私はその場で会長や社長や多くの社員を前に「撤退はありません。命をかけてくれ」と言いました。その時は「何でこんなことを言われないといけないのか」という雰囲気もあったそうですが、あれでいい意味で「次のステージ」に行けたんです。
(対策統合本部は)単に官邸と東電の意思疎通を良くしただけではありませんでした。アメリカは当時、日本政府から情報入らずイライラしていたのですが、そこ(本部)に来てもらったことで、いろんな問題が前向きに動き出しました。その後の展開に非常にプラスになったと思っています。

 

北澤 あの決断は最大の成果だね。総理大臣としての責任をしっかり果たした場面でした。日本政府だけじゃなくて、当事者の東電も巻き込んで総力戦になったから。菅さんが言うように、アメリカとのぎくしゃくも解消に向かいました。
あの頃、総理から私に電話がかかってきて「アメリカとうまくいっていないようなので、調整してほしい」と言われました。私がルースさん(駐日大使)と親しいことも分かっていたから。防衛省の中に会議を作ってやろうとしていたのですが、政府と東電の対策本部ができたことで、連携が非常にスムーズに行きました。あれは大した決断だったですよ。

 

 原発事故の情報は、圧倒的に東電が持っているわけです。官邸では(12日に1号機の)水素爆発があったことさえ、テレビを見るまで分からなかった。しかし、米国の関係者が(対策統合本部に)行くことで、生の情報がアメリカにも入るようになった。そこで事故対応の「共通の場」ができたということですね。

 

危機の時代のリーダーに必要なこと
 

北澤 原発事故対応については「菅さんだからできた」ということは、きちんと残しておかないといけないと思うんですよ。危機に遭遇した時の総理大臣の能力というのは、総理をつくる時に(国民)みんなが考えないといけないことなのでね。
菅さんに(総理大臣としての資質の)すべてがあったかどうかは分かりません。でも、短期間ではあったけれど、能力は十分に発揮したと思います。ああいう(大災害の)時には、実に向いていたね。
(危機の時代のリーダーに)一番必要な資質は「最悪の事態を想定する」こと。これはなかなかできないことなんですよ。情報が受け切れないほど入ってくる中で、どういう判断をするか。最悪の事態を想定しておけば、いろんな対応が選択できます。それをできたということは、菅さんの能力だったと思います。
電力会社と自民党の関係を考えると、あの時に自民党政権だったら、たぶん東電に引きずられたと思いますよ。しがらみのない人が総理大臣になって、しかも(原子力の)知識があった。そして、現場を見てきて、現場の東電の人に信頼感を抱いて帰ってきた。そういうことを総合して決断した。大した決断をしましたよ。
一番大事な時に、菅さんは総理をやったんですよ。私はそばで見ていて、つくづくそう思いました。

 

 今のコロナ危機で、安倍政権や菅義偉政権の対応は、危機管理の基本の考え方が非常に弱いというか、あいまいだと思うんですね。
 

北澤 うん、そうだね。
 

 震災と原発事故では防衛大臣の北澤さんにもご苦労もいただき、ものすごいアドバイスもいただきましたが、当時の枝野幸男官房長官や福山哲郎官房副長官も、同じ経験を、同じ重さでしたわけです。その経験は立憲民主党の多くの議員に引き継がれています。枝野代表、福山幹事長を含めて、わが党のベテランや中堅議員、おそらく100人を超えるくらいの人間が、あの時に閣僚や副大臣として事故の対応にあたりました。
 

北澤 そうだね。
 

 コロナ禍は10年前の原発事故に並ぶ日本の危機です。立憲民主党を中心とした野党には、東日本大震災と福島原発事故に対応する経験を持った多くの人材が存在しています。国民の皆さんには、ぜひそこに注目してもらいたい。自民党で不十分だと思う方は、私たちに賭けてみてほしい。それが私のメッセージです。
 

北澤 今まで長い間政治活動やってきましたが、菅直人の突破力と決断力は、今振り返っても清々しい思いになります。これからも頑張ってください。東日本大震災で総理として大きな成果を挙げた菅さんには、再び国政の場で、日本の危機にしっかり対応できるよう指導してほしいと思います。
また、菅総理のもとで(官房長官として)あの難局を切り抜ける努力をした枝野さんは、いい経験をしたと思いますよ。菅総理があの時、さまざまな分野で決断してきた姿をずっと見てきた枝野さんに、総理を目指してぜひ頑張ってほしいですね。